私たちは、いのちが尊く大切なことは、百も承知しています。
しかしながら、そのことが心にドスンと落ち実感として響いているのでしょうか?
理解(想像と理想)と実感(現実)は異なります。
私たちが実感するのは、身近で命の危険に直面した時ではないでしょうか。
ここ数年、自然災害や疫病など多方面にわたって各地で災いが起こっています。
昨日まで何事もなく平穏無事で暮らしていた家が、今日には台風で飛ばされたり電柱が倒れてきたり、
更には土石流で流され埋もれたりと、跡形もなく何も無くなってしまう、
そんなことが身近において多々起きているのです。
「明日は我が身」とはよく言ったものです。
「私たちは盤石の大地に立っている」と思うのは錯覚と思ってください。
薄氷の上に存在すると知った時、
私たちの生命、また動植物の生命、それは何ものにも代え難い財(たから)と気付くことでしょう。
上記の御文章は、日蓮大聖人さまが、ある檀越から白米が送られたことに対してのお礼状です。
そして、この御書の末尾に「凡夫なれば寒も忍びたく熱をもふせぎがたし。食ともし」と述べておられます。
大聖人さまが身延に入って3年目。
雪深く人が訪れることも少なく、ご自身のみならず弟子などを養う食物にも事欠くありさま。
そこへ届けられた白米や芋のご供養の品々。
これによっていのちを繋ぐことができたことを感謝されています。
大聖人さまは、数多のご法難に加え身延入山後も常に死との隣合わせだったからこそ、
いのちの尊さを常に実感されていたのでしょう。
命とは、尊きもの。私たちが生きるための根源であります。
世間では、まだまだ新型コロナウィルスが蔓延しています。
どうか、自身の身体は自身で大切に管理してください。
生きる術(智慧と行動)、生かされる法(知恩報恩)はたくさんあります。
それを見つけてください。
令和2年7月1日 法修山一心寺